先日行った須原屋本店で、こんなマップを手に入れました。
これが、なかなか面白い!
「あっおやまっぷ」作成者の、あおやままさひろさんは、
ネットは一切使わず、聞き込みや書物、耳にはさんだことなどをもとに
地図を作ったそうです。
味のあるイラストや、びっしり書き込まれた手書きの文字。
不思議な魅力です!
普段よく行く浦和ですが、知らないことが山ほどあるのだなあと実感しました。
文学にまつわる情報も散りばめられている
この「あっおやまっぷ」は、6年ぶりにリニューアルされ、
いま、静かなブームなのだとか。
このマップを手に、ぶらりと浦和散歩・・・
遠出は難しい今の時期、
いつもの街での発見を綴ります♪
- 1、石井桃子「幼ものがたり」は浦和のおはなし
- 2、街の掲示板?石井桃子の新聞記事発見
- 3、調神社はうさぎでいっぱい☆
- 長谷川かな女の石碑も。
- 4、水上勉が通った古本屋
- 5、最後に
- ~あなたの街にもきっとある!新たな発見☆〜
1、石井桃子「幼ものがたり」は浦和のおはなし
生まれ育った大阪を離れ
さいたまへ引っ越すと決まって、まず一番に読んだのが
浦和出身の石井桃子さんの「幼ものがたり」。
石井桃子さんといえば「くまのプーさん」、「ピーターラビット」などの
数々の児童文学を
初めて日本語に翻訳した翻訳家・作家です。
原風景とも言える埼玉県の街の様子、
子ども時代の家族との生活、近所の人々のことなどを
記憶のままに写し取った回想記。
70歳を間近にして書かれた本ですが
ありありと、まるで今そこを歩いているかのように
語られる明治末~大正初期の浦和の街の当時の様子にびっくり!
浦和の家の庭から美しい富士山が見晴らせた話、
中山道には暗く生い茂った松のトンネルがあったこと、
タケノコがたくさん生える林や森がそこらじゅうにあったこと、
ちょんまげを結った老人が道を歩いていたこと・・・
埼玉県民にとって、いまや大都会の浦和。
このビルの立ち並ぶ街も、その昔、自然が広がり、
まさにこの地で石井桃子さんは多感な子供時代を過ごしたのだと思うと
とても感慨深く思いました。
↑これはいまの浦和駅前。↑
ここから、昔は富士山が見えたんだなぁ…(写真:wiki)
2、街の掲示板?石井桃子の新聞記事発見
大きな建物が並び、人がせわしなく行き交う駅前を横切り
古びた路地に入ると、もうそこは昭和の香り。
半世紀以上もそこにある喫茶店や書道専門店、寿司屋さん。
そこに面白いブロック塀を見つけました。
ふつうの掲示板じゃなくて、ただの塀。
ビニルをかけて、たくさんのちらしや新聞記事が
ずらりと貼ってあるのです。
石井桃子さんの新聞記事も、見つけました。
しわしわだけど、そりゃあ風雨にさらされているのですから
当然ですよね。
冊子「石井桃子in浦和」!!手に入れなければ。
日本の子どもの本の礎を築いた石井桃子は
浦和で生まれた。
高校時代「浦和という名は母のように親しくて
ちょっと他人行儀に冷静に分析できない」と語っていた。
引用:「あっおやまっぷ」
この言葉からもわかるように、石井桃子さんにとって、
浦和の街は、幼い頃からの自分をずっと包み込んでくれた
母親のような特別な存在だったんですね。
私にとっての大阪の街も、ちょうどそんな感じなので、よくわかります。
ちなみに、このブロック塀のすぐ隣がカフェ「楽風」です。
カフェ楽風については過去記事をご覧ください。↓↓
石井桃子さんはたくさんの名著を世に送り出しました。
3、調神社はうさぎでいっぱい☆
長谷川かな女の石碑も。
「幼ものがたり」にも登場する調神社。
私の家の前の街道に立って、ほとんどまっすぐにのびている
中山道の南のはしを眺めると、道はまっ黒い森の中にはいっているように見えた。
そこが、そのころの浦和町のはずれであった。
引用:
社名を調(つき)神社と云い、地元では「つきのみや」と愛称されています。
鳥居のない神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも全国的に珍しいものです。
「調宮縁起」によると、今からおよそ2,000年前の第10代崇神天皇の勅命により創建。
伊勢神宮へ納める貢(調)物(みつぎもの)の初穂を納めた倉庫群の中に造営されたため、
貢物搬出入の妨げになる鳥居がないと伝えられています。
また、調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、
月の動物と云われた兎が神の使いとされ、中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代には月読社とも呼ばれていたようです。
引用:
神社の出口に、こんな石碑を見つけました。
愛する夫である俳人・長谷川零余子(享年42歳)を突然亡くし、
直後に新宿の自宅が全焼。
またたく間に大切なものを失った長谷川かな女は
それらの「生涯の影」を背負い、
34歳で浦和へと移り住みました。
この歌にこめられたきっぱりとした決意の通り、
長谷川かな女は、81歳で亡くなるまでの47年間を
この調神社の近くの家で過ごしたのです。
浦和の地で、次々と句集を発表し、
大正を代表する
女流俳人となった長谷川かな女。
彼女もまた、浦和を愛した文学者の一人でした。
4、水上勉が通った古本屋
「あっおやまっぷ」では
水上勉が浦和に住んでいたころ
よく遊びに来た店
フライパンのうたチェック!
と紹介されています。
「フライパンのうた」は、私は未読なのですが
「霧と影」という作品で作家として世に認められるまでの
浦和の土蔵に住んでいた頃の苦難を書いた私小説だそうです。
(参考:アマゾンフライパンの歌 (1966年) (角川文庫)レビュー)
残念ながら、現在は営業していない古本屋さん。
シャッターの前に、古ぼけた自転車が乗り捨てられているのが
また、なんとも侘しい。
あの水上勉が、この小さな店に来ていたというのは
信じがたく感じられますが、
まだ作家として認められていない頃のことなので
書物代を浮かすために、近くの古本屋で大量の本を
買い漁っていたのかもしれません。
そんな、大作家の若かりし頃の姿を想像するのも楽しいですね。
5、最後に
~あなたの街にもきっとある!新たな発見☆〜
コロナ禍になった昨年から、
自宅の近くに目が行くようになり、
たくさんの発見がありました。
今回のプチ文学散歩では、さいたまへ転居が決まったときに読んだ
「幼ものがたり」に登場した浦和の街や調神社をめぐり、
また偶然手に入れた「あっおやまっぷ」をたよりに
水上勉が贔屓にした古本屋や、長谷川かな女の石碑を見つけました。
この街は、思いがけず、文学の香りに満ちています。
本を片手に浦和の街を歩けば、もう今はこの世にはいない、
けれどたくさんの素晴らしい作品を後世に残してくれた
文学者たちが歩いた道をたどることができるのです。
いままで見ていた私の街とは違う、
発見に満ちた新鮮な街の顔。
次は立原道造のヒヤシンスハウスや
白幡沼伝説のこぶし沼も行ってみたいです。
あなたの街にも、きっと隠されたトリビアや言い伝え、
文学者の足跡があるはず・・・
遠出ができないいま、
自分が住んでいる街の新たな顔に出会う散歩をしてみませんか?
きっと素敵な発見があるはずです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
<本を片手に訪れたい場所の過去記事>