Miyukeyの気まぐれブログ

愛媛県在住のアラフォー主婦です。本、洋画、訪れた場所などの感想を気まぐれに、かつ自由に綴りたいと思います☆笑顔の扉の”key"を見つけられる毎日になることを祈って♪現在は、仕事繁忙期のため月に2回の更新となっていますが、よろしくお願いいたします☆

横浜の魔女の店「グリーンサム」と、魔女に憧れた私の魔女修行(?)

 

「魔女」と聞いて、何を思い浮かべますか?

何百年も生きたシワシワの顔にイボだらけの曲がった鼻、黒い服?

ホウキにまたがり空を飛び回る姿?

それとも、あやしい鍋をかき回し、ハンサムな王子さまも一瞬でカエルに変えてしまう

薬を作っている姿でしょうか?

私たちが思いつくのは、幼き頃に童話の中で見た魔女の姿かもしれません。

でも本当に魔女がいるとしたら、どんな人なのでしょうか?

今回は、「魔女」をテーマに、横浜の素敵なお店での体験や

私が幼い頃にコッソリしていた魔女修行(??)についてお話します。

 

1、横浜の魔女の店「グリーンサム」で

 

横浜の元町ショッピングストリートから少し道をそれたところにある小さなお店。

それがハーブと魔女の専門店「グリーンサム」です。

私が訪れたのはもう4年も前のこと。

ガラス窓から見える様々な魔女人形たち、、、

不思議な雰囲気に誘われるかのようにドアノブを回すと・・・

中には世界各地から買い付けられた魔女人形。

そして店主:飯島都陽子さんご自身が作られた魔女人形たちも。

不思議だけど魅力にあふれたその空間は、まるで魔女たちの魔法で時間が歪んでいるよ

う・・・

ハーブティーや魔女の本なども所狭しと並んでいる店内では

店員さんとお客さんが話に花を咲かせていました。

お邪魔にならないよう商品を見ていると初老の女性に話しかけられました。

もうお顔も、何を話したかもほとんど思い出せないのです。

でもとっても優しくて上品な、それでいてちょっと秘密めいた不思議な雰囲気で、

いきいきと魔女のことを語っていらっしゃった静かだけれど弾んだ声は

はっきりと覚えています。

もしかして、飯島都陽子さん・・・?と思ったけれど、

その時は確認しないままお店を出てしまいました。

その方の話によると、魔女というのは、悪い存在どころか

ハーブや薬草の知識が豊富で、病気やケガの人を治療したり

お悩みに答えて力になってくれるとても心強い存在だったのだとか。

そして、ヨーロッパには昔から料理上達や火災防止を祈って

「キッチンウィッチ」という魔女の人形を台所に飾る習慣があるそうです。

店内にもキッチンウィッチがズラリ。

どれもユニークで独特な、でもどこかお茶目な魔女たちばかり。

 

あのお店の不思議な空気と、あの日お話した品がある素敵な初老の婦人。

それは、ほんの短い時間だったけれど、忘れがたい思い出として

いまも鮮烈に胸に残っています。

 

「グリーンサム」の魔女人形たち。お店の中には所せましと魔女たちが飾られていました。(写真はお店の外から撮影)

 

 

2、魔女に憧れていた私

 

小学生の頃、毎日、すり切れるほど読んでいた本のひとつに

「魔女っ子入門」というのがありました。

おとぎ話の中に出てくる魔女のように、魔法が使えたら素敵!と

単純な気持ちで買った一冊でしたが

いま思うと、子供向けの本にしてはとても充実した内容で

薬草のことや、言い伝え、魔女狩りの歴史のことなどにも

触れられていて、とても濃い内容だったことを覚えています。

中でも、引っこ抜くと悲鳴のような声がして、その声を聞いた者は

死んでしまうというマンドラゴラの言い伝え、

魔女狩りに捕まったものの、薬草の幻覚作用を駆使して牢屋から脱出した

実在する伝説の魔女の話などのページは何度も読み返しました。

そして、「毎日すれば美しい魅力的な魔女になれる!」という魔女の体操は

私にとってとても神秘的で、毎日こっそりとやっていたのを覚えています。

あれから約30年経ったいま、思い返すと、あれはヨガのポーズだったんだとわかる

のですが、当時は本当に魔女になれる気がして練習していたんですね・・・^^

ちょっと怖くて、神秘的で、謎めいていて、思いのままに現実を操れる・・・

そんな「魔女」という女性像に、憧れていた私。

でも、いまは知っています。

横浜の「グリーンサム」というお店で聞かせていただいたお話や、

飯島都陽子さん(「グリーンサム」店主)が出版されている本を読んで気づいたこと。

それは・・・

魔女って、実は自分を幸せにするんじゃなく、

自分が学んだことを生かして、周りの人を笑顔にする人なんだってこと。

いや、もっと言えば、自分が健康で幸せでいなければ人を幸せになんかできないのですから、

自分も周りも楽しい気持ちにさせることができる、

それが本当の魔女なんだってこと。

言うのは簡単ですが、それって難しいことですね。

だからこそ、魔女たちは、修行が必要なのかしら?

一人前になるために相当な年月が必要と言われるのはそのため・・・?

・・・なんて思ったり。

アラフォーになったいまも、「魔女」という存在に、どこか強い魅力を

感じる気持ちは、あの頃と変わらない気がします。

でも、本物の、つまり「自分も周囲も幸せにできる魔女」には、

程遠い!まだまだ修行が足りない私なのです。

 

いまも、あの本は書店に並んでいるのだろうか、と検索してみると・・・

ありました!Amazonに・・・!

でも、この謎すぎる価格設定は・・・魔女価格・・・???

 

 

 

3、魔女を身近に感じられる本「魔女の十二カ月」

 

今回、横浜での思い出や幼い頃のことを思い出すきっかけとなったのは

最近、この一冊に出会ったからです。

魔女の12ヵ月 自然を尊び、知り尽くした魔女の「暮らし」と「知恵」

そう、ハーブと魔女の専門店「グリーンサム」の店主:飯島都陽子さんが書かれ

た本。

とある本屋でこの本を手にしたとたん、懐かしい記憶が次々に溢れてきました。

この本は、魔女の知恵を生活の中に取り入れるためのアイディアが

いっぱいに詰め込まれた一冊。

ケルトの言い伝えや伝説、ハーブの知識、簡単に作れる魔女のお菓子や料理のレシ

ピ・・・

月ごとに、季節を楽しみながら、魔女の暮らしをちょっぴりまねることができる、

そんな本です。

ハーブティーを飲みながら、そっとページをめくる時間は

至福の時・・・良い本に出会えました。

 

アマゾンでは、試し読みができますので、ぜひこちらからどうぞ↓↓

魔女の12ヵ月 自然を尊び、知り尽くした魔女の「暮らし」と「知恵」

 

 

 

魔女。 幼い頃に皆さんがワクワクしながらめくった絵本や童話の中に

きっと必ず彼女たちの姿があったはず。

でも、それだけではなく、魔女とよばれる人々は歴史の中にも実在して、

人々に様々な影響を与えてきました。

悪い魔女もいるけれど、もちろん良い魔女も。

彼女たちは、遠い昔に読んだ本の中のものではありません。

もしかしたら、あなたの隣に座っているかもしれないのです^^

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

飯島都陽子さんの本をご紹介・・・

 

3冊目の新刊ですって。絵は山村浩二さん。

 

魔女の植物の絵が美しすぎる一冊☆

 

私が今読んでいる本☆おすすめですよ♪

 

 

<過去記事紹介>

 

miyukey.hatenablog.com

 

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山下清画伯と花火 代表作「長岡の花火」に平和への祈りをこめて

 

愛媛県新居浜市のあかがねミュージアムで開催された

山下清展 百年目の大回想」へ行って来ました。

東京をはじめ7県を巡回していたので、すでに観られた方も多いと思います。

山下清という一人の天才画家が命を吹き込んだ作品群・・・

圧倒されるほどにまっすぐで、素朴で力強いその絵画の数々は

49年間の人生を駆け抜けた画家の、温かい息吹が感じられるものでした。

作品のひとつひとつが、観る者に親しげに語りかけてくるような、

そんな展覧会だったと思います。

 

その場を立ち去りがたいほどに胸を打たれた作品は

何枚もありましたが、その中から、今日は

代表作「長岡の花火」を中心にご紹介します。

 

1、「長岡の花火」 静けさと、平和への祈りと

花火というのは不思議なものだ、と、私はいつも思います。

次々に花開く花火の大きな音、湧き上がる歓声・・・

とてもにぎやかなはずなのに、無心に大空を見上げる私たちの心は

不思議に静まり返っています。

一瞬で消えてしまう花火は、どこか人の一生にも似ているからかもしれません。

そんな花火の「不思議な静けさ」を、この作品を観たときに感じました。

 

 

「長岡の花火」1950年

 

描かれたのは1950年、山下清が28歳のとき。

大空に打ち上がる大輪の花火と、水面に映る光のゆらめき、そして人だかり。

楽しい光景だけれど、この絵を見ていると、

心のどこかが、しんと静かになる気がします。

 

みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかり作っていたら

きっと戦争なんて起きなかったんだな

 

山下清の言葉です。

長岡花火は、明治時代から始まりましたが、

戦争で中断、その後1947年から現在まで

戦没者の鎮魂のために続けられています。

このとき、山下画伯とともに大空を見上げた人々の中には

大切な家族、友人、恋人を亡くした人もいたことでしょう。

花火の中に、そして見上げる群衆の後ろ姿に命を大切に思う

画家の気持ちも感じられる気がしました。

 

 

2、放浪を始めたのは戦争から逃れるためだった・・・!!

山下清といえば放浪の旅。

その最たる目的は、実は戦争から逃れるため。

「戦争に行きたくない」。

山下清は、18歳のとき徴兵検査から逃れるために、養護施設を抜け出して

各地を転々とし、住み込みで働きながら旅を続けます。

お国のために命を捧げることが立派とされていた当時、

そんな考えを持っていたとしても、口に出す者はいない、

ましてや逃げるなんてもってのほかだったでしょう。

それでも、逃げて逃げて、清青年の放浪の旅は3年に渡ります。

人々が殺し合い、血を流すことは、清の澄んだ目に

どんなに恐ろしく、愚かしく映ったことだろうと思います。

こんな言葉も残しています。

 

戦争と言うものは一番こわいもので 一番大事なものは命で

命より大事なものはない

 

誤った教育や思想は、真実を歪めてしまいます。

山下清の言葉も絵も、教育や思想に染まることなく、

真に大切なものをまっすぐに語っています。

結局、3年後に連れ帰られた清は、母にひどく叱られ、

泣く泣く徴兵検査へ行くも、障害のため戦争は免除されたのでした。

ちなみに、ドラマ「裸の大将」などでは、放浪先でスケッチをしていたように

描かれていましたが、実際は、全くスケッチや写生をしなかったそうです。

写真もスケッチもなく、それでも何年経ってからでも、

その風景を寸分も違えることなく描くことができたというのには

驚きました。やはり、天才だったのですね。

 

「グラバー邸」1956年

 

3、いじめ、そして時代の波にもまれて

 

もっと時代を遡り、山下画伯が3歳の頃のこと。

ひどい消化不良のために吃音が残り、徐々に知的障害が顕著になっていきました。

学校でのいじめもエスカレートし、養護施設「八幡学園」への転入を余儀なくされます。

捕まえた虫だけが友達であった清が、その頃、描いた絵に

心を掴まれました。

「かたつむり」制作年不詳・「蜂2」制作年不詳

 

「とんぼ」制作年不詳 ・「蝶々」1934年

この頃から、小さないのちを温かく見つめる目を持っていたことがわかります。

 

どこかユーモラスで、可愛らしい。

上手く描こう、巧く見せようなんて、これっぽっちも思わず

ただ対象を忠実に、ありのままに描く。

絵画に対するその真っすぐな姿勢は、生涯、変わることがなかったのだと思います。

数多くの絵画の中に、画伯の真っすぐな生き方、

純粋で、ただありのままを生きた、ほとばしる「生」を感じました。

 

いじめにあい、孤独だった山下少年が人物を描くようになったのは

学園に慣れ、友人ができてからだと言います。

その頃の絵です。

「ともだち」 1938年

 

生涯を通して取り組むことになる貼絵に出会ったのも学園でした。

物資が乏しくなり、貼絵の材料も少なくなって

この頃の絵には、古切手を使うようになりました。

切手の模様や数字が、とてもいい味を出していて、見入ってしまいました。

 

「ともだち」1938年(部分)

服の部分に使われている古切手。どんな状況でも、山下清が制作の手を止めることはなかった。

 

4、最後に遺した言葉は

 

東海道五十三次」の大作に取り掛かっていた山下清

眼底出血を起こし闘病生活に入ったのは46歳のこと。

その三年後、49歳の若さで脳溢血により、帰らぬ人となります。

「今年の花火見物はどこに行こうかな」という言葉を残して。

花火大会開催を聞きつければ全国に足を運んだという山下清

なぜ、そんなに花火が好きだったのでしょうか。

一瞬、空が明るくなった瞬間、人々の顔も明るくなり、

心にも花が咲くように感じられるからでしょうか。

それとも、私が感じるように、花火は人の一生にも似ていて

美しいけれど、儚いから?

私はいろいろ考えを巡らせてみますが、

きっと、画伯はそんな理屈は考えていなかっただろうと思います。

ただ本能のまま、美しいものを汚れのないまっすぐな眼差しで見つめ、

心に焼き付いた花火を作品に残したのでしょう。

山下清が遺した花火は、消えることがありません。

いまはなくなった田園風景も、近代的に変わった街の景色も

作品の中に生き生きと残っています。

そして、それらは、観る者の心に、いつまでも生き続けます。

時代を超え、国境も超えて。

「長岡の花火」1950年(部分)

画伯が遺した花火は、いまも、そしてこれからも、鮮やかに輝き続けます。

 

いじめを受け、戦争から逃れるために放浪を続けた山下清は、

いのちの尊さを、本能的に痛感していたでしょう。

冒頭に挙げた言葉。

 

みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかり作っていたら

きっと戦争なんて起きなかったんだな

 

展覧会を通して、山下清の生涯を知り、この言葉の意味が、

改めて、とても深く心に響きました。

この地球で、いまも燃え続ける戦火が、どうか一刻も早く消えますように。

もう、これ以上犠牲になる人が出ませんように。

心から祈るばかりです。

 

 

私がミュージアムショップで買ったファイル。

かわいいカタツムリと蝶々でしょう?

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

<過去記事紹介>

 

miyukey.hatenablog.com

 

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