Miyukeyの気まぐれブログ

愛媛県在住のアラフォー主婦です。本、洋画、訪れた場所などの感想を気まぐれに、かつ自由に綴りたいと思います☆笑顔の扉の”key"を見つけられる毎日になることを祈って♪現在は、仕事繁忙期のため月に2回の更新となっていますが、よろしくお願いいたします☆

山下清画伯と花火 代表作「長岡の花火」に平和への祈りをこめて

 

愛媛県新居浜市のあかがねミュージアムで開催された

山下清展 百年目の大回想」へ行って来ました。

東京をはじめ7県を巡回していたので、すでに観られた方も多いと思います。

山下清という一人の天才画家が命を吹き込んだ作品群・・・

圧倒されるほどにまっすぐで、素朴で力強いその絵画の数々は

49年間の人生を駆け抜けた画家の、温かい息吹が感じられるものでした。

作品のひとつひとつが、観る者に親しげに語りかけてくるような、

そんな展覧会だったと思います。

 

その場を立ち去りがたいほどに胸を打たれた作品は

何枚もありましたが、その中から、今日は

代表作「長岡の花火」を中心にご紹介します。

 

1、「長岡の花火」 静けさと、平和への祈りと

花火というのは不思議なものだ、と、私はいつも思います。

次々に花開く花火の大きな音、湧き上がる歓声・・・

とてもにぎやかなはずなのに、無心に大空を見上げる私たちの心は

不思議に静まり返っています。

一瞬で消えてしまう花火は、どこか人の一生にも似ているからかもしれません。

そんな花火の「不思議な静けさ」を、この作品を観たときに感じました。

 

 

「長岡の花火」1950年

 

描かれたのは1950年、山下清が28歳のとき。

大空に打ち上がる大輪の花火と、水面に映る光のゆらめき、そして人だかり。

楽しい光景だけれど、この絵を見ていると、

心のどこかが、しんと静かになる気がします。

 

みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかり作っていたら

きっと戦争なんて起きなかったんだな

 

山下清の言葉です。

長岡花火は、明治時代から始まりましたが、

戦争で中断、その後1947年から現在まで

戦没者の鎮魂のために続けられています。

このとき、山下画伯とともに大空を見上げた人々の中には

大切な家族、友人、恋人を亡くした人もいたことでしょう。

花火の中に、そして見上げる群衆の後ろ姿に命を大切に思う

画家の気持ちも感じられる気がしました。

 

 

2、放浪を始めたのは戦争から逃れるためだった・・・!!

山下清といえば放浪の旅。

その最たる目的は、実は戦争から逃れるため。

「戦争に行きたくない」。

山下清は、18歳のとき徴兵検査から逃れるために、養護施設を抜け出して

各地を転々とし、住み込みで働きながら旅を続けます。

お国のために命を捧げることが立派とされていた当時、

そんな考えを持っていたとしても、口に出す者はいない、

ましてや逃げるなんてもってのほかだったでしょう。

それでも、逃げて逃げて、清青年の放浪の旅は3年に渡ります。

人々が殺し合い、血を流すことは、清の澄んだ目に

どんなに恐ろしく、愚かしく映ったことだろうと思います。

こんな言葉も残しています。

 

戦争と言うものは一番こわいもので 一番大事なものは命で

命より大事なものはない

 

誤った教育や思想は、真実を歪めてしまいます。

山下清の言葉も絵も、教育や思想に染まることなく、

真に大切なものをまっすぐに語っています。

結局、3年後に連れ帰られた清は、母にひどく叱られ、

泣く泣く徴兵検査へ行くも、障害のため戦争は免除されたのでした。

ちなみに、ドラマ「裸の大将」などでは、放浪先でスケッチをしていたように

描かれていましたが、実際は、全くスケッチや写生をしなかったそうです。

写真もスケッチもなく、それでも何年経ってからでも、

その風景を寸分も違えることなく描くことができたというのには

驚きました。やはり、天才だったのですね。

 

「グラバー邸」1956年

 

3、いじめ、そして時代の波にもまれて

 

もっと時代を遡り、山下画伯が3歳の頃のこと。

ひどい消化不良のために吃音が残り、徐々に知的障害が顕著になっていきました。

学校でのいじめもエスカレートし、養護施設「八幡学園」への転入を余儀なくされます。

捕まえた虫だけが友達であった清が、その頃、描いた絵に

心を掴まれました。

「かたつむり」制作年不詳・「蜂2」制作年不詳

 

「とんぼ」制作年不詳 ・「蝶々」1934年

この頃から、小さないのちを温かく見つめる目を持っていたことがわかります。

 

どこかユーモラスで、可愛らしい。

上手く描こう、巧く見せようなんて、これっぽっちも思わず

ただ対象を忠実に、ありのままに描く。

絵画に対するその真っすぐな姿勢は、生涯、変わることがなかったのだと思います。

数多くの絵画の中に、画伯の真っすぐな生き方、

純粋で、ただありのままを生きた、ほとばしる「生」を感じました。

 

いじめにあい、孤独だった山下少年が人物を描くようになったのは

学園に慣れ、友人ができてからだと言います。

その頃の絵です。

「ともだち」 1938年

 

生涯を通して取り組むことになる貼絵に出会ったのも学園でした。

物資が乏しくなり、貼絵の材料も少なくなって

この頃の絵には、古切手を使うようになりました。

切手の模様や数字が、とてもいい味を出していて、見入ってしまいました。

 

「ともだち」1938年(部分)

服の部分に使われている古切手。どんな状況でも、山下清が制作の手を止めることはなかった。

 

4、最後に遺した言葉は

 

東海道五十三次」の大作に取り掛かっていた山下清

眼底出血を起こし闘病生活に入ったのは46歳のこと。

その三年後、49歳の若さで脳溢血により、帰らぬ人となります。

「今年の花火見物はどこに行こうかな」という言葉を残して。

花火大会開催を聞きつければ全国に足を運んだという山下清

なぜ、そんなに花火が好きだったのでしょうか。

一瞬、空が明るくなった瞬間、人々の顔も明るくなり、

心にも花が咲くように感じられるからでしょうか。

それとも、私が感じるように、花火は人の一生にも似ていて

美しいけれど、儚いから?

私はいろいろ考えを巡らせてみますが、

きっと、画伯はそんな理屈は考えていなかっただろうと思います。

ただ本能のまま、美しいものを汚れのないまっすぐな眼差しで見つめ、

心に焼き付いた花火を作品に残したのでしょう。

山下清が遺した花火は、消えることがありません。

いまはなくなった田園風景も、近代的に変わった街の景色も

作品の中に生き生きと残っています。

そして、それらは、観る者の心に、いつまでも生き続けます。

時代を超え、国境も超えて。

「長岡の花火」1950年(部分)

画伯が遺した花火は、いまも、そしてこれからも、鮮やかに輝き続けます。

 

いじめを受け、戦争から逃れるために放浪を続けた山下清は、

いのちの尊さを、本能的に痛感していたでしょう。

冒頭に挙げた言葉。

 

みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかり作っていたら

きっと戦争なんて起きなかったんだな

 

展覧会を通して、山下清の生涯を知り、この言葉の意味が、

改めて、とても深く心に響きました。

この地球で、いまも燃え続ける戦火が、どうか一刻も早く消えますように。

もう、これ以上犠牲になる人が出ませんように。

心から祈るばかりです。

 

 

私がミュージアムショップで買ったファイル。

かわいいカタツムリと蝶々でしょう?

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

<過去記事紹介>

 

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