Miyukeyの気まぐれブログ

愛媛県在住のアラフォー主婦です。本、洋画、訪れた場所などの感想を気まぐれに、かつ自由に綴りたいと思います☆笑顔の扉の”key"を見つけられる毎日になることを祈って♪現在は、仕事繁忙期のため月に2回の更新となっていますが、よろしくお願いいたします☆

「咳をしても一人」尾崎放哉の終焉の地を訪ねて ~数奇な運命と生涯を辿る旅~

「咳をしても一人」

「入れものが無い 両手で受ける」

 

山頭火と並び称される自由律俳句の代表俳人、尾崎放哉の句です。

その人生は、類まれで壮絶なものでした。

 

小豆島の海。尾崎放哉はこの海をどんな気持ちで眺めたのだろうか。

 

エリート街道まっしぐら、人も羨む美女を嫁に迎え

公私ともに順風満帆であった放哉。

けれど、運命の歯車はいつしか狂い始め、

放哉は41歳で、小豆島で人生を終えることになります。

貧窮の中、粗末な庵で、孤独のうちに迎えた死。

いったい何があったのか・・・?

 

小豆島にある尾崎放哉記念館、そして放哉の生涯を

私の個人的な感想を交えながらご紹介いたします。

 

<参考>

最晩年にたどりついた小豆島での最期の8か月を描いた

「海も暮れきる」という小説を読んでから

尾崎放哉記念館を訪れました。

これは、吉村昭による伝記小説です。

あまりの面白さに、ページを繰る手が止まらない・・・!!

読みやすく、惹きこまれる文体で、放哉の生涯や性格を

あますところなく描ききっています。

小豆島を旅行される方はもちろん

尾崎放哉に興味がある人もない人も、楽しめる一冊です。

 

 

 

1、運命の歯車を狂わせたのは・・・

 

尾崎放哉は鳥取県出身。

帝国大学を卒業後、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に入社。

若干29歳で大阪支店次長、その後、東京本社の契約課長に。

まさに出世街道まっしぐら。

でも、こんな輝かしい経歴を知っても、放哉の同級生たちは

だれも驚かなかったでしょう。

なぜなら、彼の高校時代からの頭脳明晰、秀でた文才には誰もが注目していたから。

私生活では若く美しい、馨(かおる)と結婚。

(当時、馨19歳。放哉の8歳年下でした)

誰が見ても恵まれた家庭。

ところが、尾崎放哉には、たったひとつ、致命的な難点があったのです。

それが、酒。

いつもは無口で気が弱いくらいの放哉でしたが、ひとたび酒が入ると

暴れる、なじる、酷評する、怒鳴る・・・

手の付けられない酒癖の悪さに、酒の場はシラケきり、

ドン引き状態に。

深酔いによる怠惰も災いして、

次第に冷遇を受けるようになります。

学歴と能力だけでは出世できないのは、今も昔も同じこと。

放哉は嫌気が差し、退社を決意します。

保険会社支配人として妻とソウルに渡ったものの、

そこでも酒が原因でクビに。

とうとう妻にも愛想をつかされ、放哉は一人、

京都、兵庫、福井などの寺を転々とし、寺男として寺の雑用をこなしながら

托鉢をし、粗末な庵で質素倹約を強いられることとなりました。

肺病を患い、体が思うように動かなくなると

高校大学時代の先輩で自由律俳句誌「層雲」の主宰者:萩原井泉水を頼り、

小豆島の西光寺の別院:南郷庵(みなんごあん)にたどり着きます。

そこで待っていたのは、たった一人で病と闘いながら

貧しさの中で自分と向き合い、ひたすらに俳句を作り続ける日々でした。

 

 

尾崎放哉が飲み歩いた路地。

奥に見えるのが西光寺です。

 

モノトーンの路地に映える朱色の山門「四恩の門」

 

秋空にそびえる三重塔は、この町のシンボル。

西光寺の庭には、山頭火と尾崎放哉の句碑があります。

 

2、実は、性格が悪かった・・・???尾崎放哉の光と陰

 

俳人仲間や昔の同僚、知人などに片っ端から無心の手紙を書き続け

西光寺の住職、俳壇の後輩などに

無償で住居、食物や金銭を恵んでもらっていた放哉。

そんな人々の好意に、うまくいっているときは感謝するものの

ひとたび上手くいかなくなると、恩人に対して恨みを募らせます。

そして、無心してやっと得たお金で酒に手を出し

泥酔し町の人々に悪態をつき、顰蹙を買う・・・

私はそんな彼の姿に、呆れ半分、苛立ち半分で

「海も暮れきる」を読み進めました。

小説なのだから、多少は脚色しているのでしょうが、

綿密な取材で知られる吉村昭の作品です。

きっと、事実とそれほど、かけ離れていないはず。

実際、吉村昭が取材旅行に行くと島の人々に

「なぜあんな人間の小説を書くんだ」と言われたというエピソードも。

小説の中の放哉は無遠慮でプライドが高く、精神の浮き沈みの激しい

子どもっぽい男性。

さて、実際の放哉は、どんな人だったのか・・・?

小豆島へと向かい、実際に尾崎放哉が暮らし、生涯を終えた庵を訪ねました

 

3、西光寺の南郷庵 そこは尾崎放哉の終焉の地

 

小豆島の土庄町、「迷路のまち」と呼ばれる入り組んだ路地が連なる場所に、

その庵はありました。

いまは尾崎放哉記念館になっています。

 

 

 

 

萩原井泉水に宛てた放哉の書簡が、門の横に大きく掲げられています。

放哉は、周囲が驚くほど多くの手紙や葉書を書きました。

目的は無心のこともありましたが、

本土と離れた島で孤独な生活を送った彼が、

唯一、人と繋がる手立てでもあったのです。

また、後輩の俳句の批評を書き、謝礼も受けていました。

この書簡の中には十四貫(52.5kg)あった体重が

十貫(37.5㎏)に落ちたとあり、

彼の病の進行が激しかったこと、

いかに貧しい生活の中で節制していたかを物語っています。

そんな衰え、飢え、大病の苦しみの中にあっても、

放哉の書簡には、それをどこか笑いを持って伝えるような、

あっけらかんとした明るさがあります。

 

尾崎放哉が最期の8か月を過ごした南郷庵。

 

放哉が好きだったボケや桃の木に囲まれるようにして

句碑が建っています。

 

「夜びて吹いて 朝も吹いて 師走の島はよ」

放哉に句を習っていた吽亭が師を偲んで書いた句です。

 

 

残念ながら、内部は、撮影禁止です。

吉村昭の「海も暮れきる」のドラマのロケ写真、

そしてここでしか見られない数々の資料が展示されていました。

書簡や葉書、直筆の短冊や写真など・・・・

そこに暮らし、最後の生を懸命に明日に繋ぎ、生きようとした

一人の人間、尾崎放哉を感じることができる記念館です。

 

4、ひとりの人間としての尾崎放哉

 

私が一番心に残ったのは、庵の入り口にファイルで閉じてあった

入庵食記。

放哉が書き綴った自筆の食事の記録です。

焼き米と焼き豆、たまに粥のみの食事。

無心をしてやっと手に入れた金で酒に走ったこと。

病勢の悪化による孤独な闘病。

一日数行程度の記録でありながら、亡くなる前日まで切々と書き連ねられたその文字に

尾崎放哉という「人間」を感じました。

病気の時はだれでも心細いものですが、

粗末な庵で、たった一人、充分に医者にかかる金さえもなく

暮らすのはどれほど大変だったことでしょう。

しかし、救いは、放哉を見捨てなかった人もいたということです。

禁酒を誓いながらも何度も破り、酒癖の悪さから周囲に迷惑をかけまくり

無心に無心を重ね、時に傲慢なふるまいで感謝を忘れた放哉。

そんな放哉を、最後の最後まで広い心で許し、見守り、

援助を続けた俳壇の先輩後輩や西光寺の住職、近所に住む優しい漁師の夫婦。

私は、彼らがなぜ、そこまで放哉に手を差し伸べ続けたのかと

疑問に思っていました。

考えてもみてください、

もし、あなたが無一文になって

無心をしてしか生きられなかったとしたなら、

返すあてもない金や食品を何度も与えてくれる人がいるかどうか。

彼には、ずば抜けた俳句の才能がありました。

そして、それに勝る人間的な魅力、惹きつける力もまたあったのでしょう。

どこか憎めない、放っておけない。どうしようもない奴なんだけど、

どこか惹きつけられる。

そんな人だったのではないでしょうか。

彼を嫌う人もたくさんいたけれど、それと同じくらいに彼を気に掛ける人も

いたのです。

 

彼は、「孤高の漂白の俳人」なんかでは、ありません。

そんなかっこいいものでも、手の届かない高みにいる俳人でもなく、

私たちと同じ、弱みや失敗にまみれた、ひとりの「人間」であったということ。

この庵を訪れ、尾崎放哉の生涯を垣間見たことによって

彼が遺した句が、忘れがたく、心に染み入るものとなりました。

 

 

5、酒癖の悪さは「運命」だったのか

 

もし、放哉に自制心があり、酒癖が悪くなかったなら?

きっと、180度違った人生を歩んでいたでしょう。

俳句の才能は、生まれ持ってのものでしたから、

恵まれた生活の中で、穏やかながらも優れた句を遺したかもしれません。

でも、こんなに研ぎ澄まされた句は書けなかったに違いありません。

小豆島に移り、貧しさと病、孤独と飢えの中で書いた句は

彼のことを何も知らない人々の心をさえ打つものがあるのです。

放哉の弱さは、「俳人としての宿命」だったのかもしれません。

小豆島で書かれた句の中から、私が個人的に好きな句をご紹介します。

 

咳をしても一人

 

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた

 

之(これ)でもう外に動かないでも死なれる

(南郷庵に住み、やっと安住の地を見つけたという喜びを書いた句)

 

山に登れば淋しい村がみんな見える

 

追っかけて追ひついた風の中

 

火の気のない火鉢を寝床から見ている

(この2句は、温暖な気候と思い込んでいた小豆島の冬が

凍てつくほどの寒さであり、雨露をしのぐだけの粗末な庵で

震えながら書いたと言われています。)

 

春の山のうしろから烟が出だした

亡くなる直前に書いた辞世の句。

放哉は春が来て温かくなり島に花が咲けば

きっと自分の病も快方に向かうだろうと期待をかけ、

春の訪れを心待ちにしていました。

奇しくも、彼が亡くなったのは4月3日。

やっと寒い島に春らしさが見え始めた日だったそうです。)

 

 

いまでも、南郷庵のある「迷路のまち」には、

いたるところに尾崎放哉の句が掲げられています。

もし訪れることがあったなら、ぜひあなたの好きな句を探してみてください

 

 

 

 

 

6、町が見渡せる高みに

 

記念館を出ると「放哉の墓」と書かれた矢印があり

辿っていくと、墓地に入っていきます。

階段を登り切った高みに、尾崎放哉の墓があります。

意外と小さいながらも、きれいに掃除され、

放哉が好んだ酒も、お供えしてありました。

そこからは、町が一望できます。

また、この町のすぐ近くには海もあります。

 

「海の見える町で死にたい」と泣きつくほど、海を愛した放哉。

本土から来る船を見つめながら、放哉は愛する妻のことを考えたのかもしれません。

別れた美しく若い妻を、放哉は死ぬまで想い続けたと言われています。

そして、妻:馨(かおる)のほうも、一度は愛想をつかせたものの

手紙で「私は職業婦人として成功して、必ずやあなたを迎えに行きます」と

書いて送ったくらいですから、まだ愛情は残っていたのでしょう。

放哉危篤の知らせを受け、すぐに大阪を出発した馨でしたが

放哉の死には、わずかに間に合わず、

変わり果てた夫の姿に号泣したといいます。

「障子開けて置く海も暮れきる」(放哉の句)

 

類まれな壮絶な人生。

けれど、いま、放哉はこの世のすべての苦から解放され

穏やかに眠っているのです。

俳句を作り続け、最期の日々を懸命に生きた、この町を

見守るように見渡しながら。

 

 

6、終わりに

思いもよらず、長文になってしまいました。

今回の小豆島の旅行で、名前と代表句しか知らなかった

尾崎放哉という俳人の生涯に触れられたということ、

「海も暮れきる」という名著に巡り会えたことは

素晴らしい出会いでした。

このような自己満足な備忘録記事を、ほんの数行でも読んで頂けたなら、

感謝です。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

<過去記事紹介>

 

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