Miyukeyの気まぐれブログ

愛媛県在住のアラフォー主婦です。本、洋画、訪れた場所などの感想を気まぐれに、かつ自由に綴りたいと思います☆笑顔の扉の”key"を見つけられる毎日になることを祈って♪現在は、仕事繁忙期のため月に2回の更新となっていますが、よろしくお願いいたします☆

ヒアシンスハウス 詩人・立原道造の夢の家は、いまも(埼玉県・別所沼公園)

 

 

埼玉県の別所沼公園には詩人・立原道造が設計した

ヒアシンスハウスがあります。

この別所沼を訪れ、ここに5坪ほどの家を建てて暮らすことを

夢見た立原道造

その夢は叶うことなく24歳で結核により亡くなりました。

立原道造の没後66年の時を経て

2004年、地元の有志や全国の立原道造愛する人々の寄付により、

建設されたヒアシンスハウス。

それは、立原道造が遺した50枚を超えるスケッチをもとに

忠実に再現されました。

 

今回は美しい紅葉の別所沼公園と

ヒアシンスハウスの写真を中心にご紹介したいと思います。

 

1、立原道造が歩いた道を

 

2022年11月12日の別所沼公園。

メタセコイアの木々が色付き、鏡のような水面に映っています。

そこを滑るように泳いでいくカモたち。

木々の幹には、沼に反射した日の光がちらちらと踊り、

地面にはレース模様の木漏れ日が。

静かで美しい秋の昼下がり。

 

 

立原道造が恋人・水戸部アサトさんとともに、この別所沼を訪れたのは

亡くなる前年の1938年11月15日。

その時は、すでに病魔が立原道造の身体を蝕み、

建築会社での仕事も休職していた頃でした。

こんな平穏で美しい秋の光景を目にして

立原は愛する人と共に、ここに住むことを夢見たのでしょう。

 

 

歩道は、いまはコンクリで舗装され、歩きやすくなっていますが

当時は葦に覆われた道でした。

1920~1930年代には芸術家たちがこぞって、

この別所沼の近くに家を建てたそうです。

「鎌倉文士と浦和絵描き」という言葉が残るほど

ここに絵描きの家が集まりました。

確かに、絵を描く材料には事欠かない美しいスポットがいっぱいです。

 

2、ヒアシンスハウス

 

沼をぐるりと回ると、木立の間から姿を現すヒアシンスハウス。

 

 

詩人でありながら、建築家でもあった立原道造

自らの晩年のために設計・計画を進めた、たった5坪ほどの家です。

「晩年」といっても、立原は自身の晩年を25、6歳と定めていたと

言われています。

結核を患い、この頃にはずいぶん容体も悪かった立原は、

自分の命が残りわずかであることを知っていたのでしょう。

恋人と、この近くに住む友人たちと幸せな時間を過ごしながら、

また、詩作にも没頭できる空間を作りたかったのだと思われます。

ヒアシンスハウスの壁には、中にある椅子と同じ十字架のデザインがあります。

 

中に入ると、思った以上に狭い空間。

常駐のハウスボランティアガイドの方に加え2~3人が入れば

もういっぱい。

 

立原は、本当に心を許せる親しい人だけを招くこと、

また、一人で過ごすことの、

心地よさを知っていたのだと思いました。

 

開け放たれた小さな窓には、一輪、ヒアシンスの花。

秋の光が柔らかく差し込んでいます。

立原道造は、この窓から別所沼を見たかったのだそうです。

でも実際は、構想が練られてから66年の月日が経っており、

別所沼が公園として整備されたこともあって

立原の計画とは真逆の場所に建っているため、

この窓からは木々だけが見えます。

 

小窓はベッドの脇にあります。朝起きて、すぐに見るのが別所沼だなんて素敵な発想ですね。

 

 

上の棚には、愛読書がずらり。

生涯の師であった堀辰雄や、高校時代の先輩の芥川龍之介の著書も。

 

 

これは、立原道造が実際に使用していた燭台。

立原がデザインした机の上に置かれています。ここで、詩作をするつもりだったそう。

窓からは、立原が植えるつもりだったポプラの木が

黄色い葉を揺らしていました。

 

 

 

3、叶わなかった夢は、後の時代に実を結ぶ

 

この日もハウスボランティアスタッフの方が座っていらっしゃり

立原道造やヒヤシンスハウスについて様々なお話を聞かせてくださいました。

私たちが訪れる前には、八王子から来られた初老の女性が、

私たちがいる間にも、赤ちゃんを抱いた若い男性が

入ってきて、スタッフの方に熱心に質問をしたり

説明をきいていらっしゃいました。

私たちの後にも、女性の二人連れの方々が。

週末の秋晴れの日といえど、人が絶えることなく訪れることに

立原道造の根強い人気とヒアシンスハウスの魅力を

改めて感じました。

 

ハウスボランティアの方の日当を含め運営費は

ヒアシンスハウスで販売されている冊子やポストカードで賄われているそう。

この日は、ベッドの布団を屋外に干していらっしゃいました。

見学者の説明だけでなく、ヒアシンスハウスを清潔に保つための

様々なことに気を配っていらっしゃるのですね。

冊子には研究者、大学教授、編集者のほかに

ハウスボランティアスタッフの方も寄稿されています。

さすが立原文学を愛する方々だけあって、魅力的な文章ばかり。

 

 

生きている間には叶わなかった夢。

それを、立原文学を愛する人々がずっと大切にし続け

この沼の畔に実を結んだということ。

そして、ヒアシンスハウスを守り続ける人や

訪れる人々、ここを訪れたことをきっかけに立原道造を知る人。

こうして、歳月を経て実を結んだ夢は、

次の時代にも繋がっていくのですね。

 

4、この世に生きるには、あまりにも

 

ヒアシンスハウスを見て、何か気付かれませんでしたか?

そう、生活するには不可欠なキッチン・お風呂がないのです。

私は、生活感を全く排除したこの造りもまた、

立原道造らしいなぁと感じました。

(実際は、食事は外食、お風呂は銭湯に行くつもりだったらしいのですが)

 

 

ヒアシンスハウスを訪れる前、

私は立原道造詩集 (ハルキ文庫)を読みました。

小鳥。光。花。木々。歌。ささやき。

立原道造の詩集は、そんな美しくて、優しい、かわいいものに

満ちていました。

 

世の中をつぶさに見つめたなら、目を背けては通れない

ドロドロとした汚いもの、醜さといったものを微塵も感じさせない、

ただただ透き通った、軽やかな、優しい光に満ちたような作品群。

これらの詩は、青年期に書かれたものではありますが

少年・・・というよりは少女が書いたような、

儚く静かで、夢の中の空気を掬いあげたような詩集なのです。

 

様々な本を読んでいると、ふと、ああ、この人は、

この世に生きるには、あまりに繊細で、優しすぎて

心が柔らかくて感性が鋭すぎるなぁと思うことがあります。

立原道造も、そんなふうに私が感じた一人でした。

24歳8か月。

早すぎる死。

でも、もしかしたら、周りにいた誰も、

この人がおじいさんになるということを想像できなかったのではないか、

そんな気がするのです。

「何かほしいものはないか?」

ベッドに横たわる立原道造に友人が問いかけたとき

彼は

「5月の風をゼリーにして持ってきてください。

ひじょうに美しくておいしく口の中に入れると 

すっと溶けてしまう青い星のようなものが食べたいのです」

と言い、それが最後の言葉となりました。

メモに書いた走り書きだとかならまだしも

そんな詩のような言葉を、死の間際に言えるものなのかと

いぶかしく思ってしまいますが、

立原道造の詩集を読んで、ああ、この人なら言いかねないと

思えました。

最後の瞬間まで、立原道造は彼らしく生きたのだと思います。

24年という短い生涯で遺した作品は多くはありませんが

その詩は、いまも私たちの心に風を吹かせます。

その風とともに、木漏れ日が、小鳥の歌が、木々のささやきが、

森の匂いまでもが胸の奥深くに届き、

切ないけれど、微笑まずにはいられない、

なんともいえない気持ちになるのです。

立原道造の詩と絵のポストカード(軽井沢で買ったもの)と、ヒアシンスハウス。

 

 

5、最後に   ~ヒヤシンスハウスが見る夢は~

ヒアシンスハウスについての立原道造のスケッチ(軽井沢で買ったもの)とヒアシンスハウス。

 

立原道造がこの世を去って、83年もの月日が経ちました。

世の中は変わり、人々の暮らしも考え方も、

そして、立原道造が愛したこの別所沼も変わりました。

でも、変わらないものも、ある。

ヒアシンスハウスを訪れ、改めてそう思いました。

沼畔にひっそりと佇むこの建物は

類稀なる才能に恵まれながらも早逝した一人の青年の夢を

いまも見ているようにみえました。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

 

<参考資料>

立原道造詩集 (ハルキ文庫)

「風の詩 ヒヤシンスハウスの会資料」 第14号 2021年10月1日発行

立原道造全集〈第6巻〉雑纂 (1973年)

https://https://designroomrune.com/magome/daypage/11/1115.html

 

 

 

 

 

 

<過去記事紹介>

 

miyukey.hatenablog.com

 

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