Miyukeyの気まぐれブログ

愛媛県在住のアラフォー主婦です。本、洋画、訪れた場所などの感想を気まぐれに、かつ自由に綴りたいと思います☆笑顔の扉の”key"を見つけられる毎日になることを祈って♪現在は、仕事繁忙期のため月に2回の更新となっていますが、よろしくお願いいたします☆

漱石珈琲店(松山)素敵カフェで夏目漱石と正岡子規の友情に想いを馳せて

「小生宿所は眺望絶佳の別天地」

夏目漱石が、親友・正岡子規への手紙にそう記した場所。

それが、漱石が松山に移り住んで最初の下宿先となった「愛松亭」。

いまは、「漱石珈琲店」として、当時の面影を残し

レトロで落ち着いたカフェとなっています。

 

松山への旅行前、一冊の本に出会いました。

一日一句と、その解説がわかりやすく載っている本ですが、

コラムには子規と漱石の友情、二人が互いに出し合った書簡や

エピソードなどが書かれていて、とても面白く、読みやすい!

松山を訪れるにあたって、読んでいてよかったと思った一冊でした。

 

今回は、素敵なカフェ「漱石珈琲店」のご紹介とともに、

夏目漱石正岡子規の友情にも触れていこうと思います。

 

 

漱石珈琲店」の前には、こんな看板が。

漱石が、ここに住んだのは、わずか二か月。

それでも、新天地の出発点となったこの場所は、

大切な場所だったに違いありません。

 

早速、中へ。

緑が滴るような美しい日本庭園。

 

 

木の下に正岡子規の歌を発見。

 

正岡子規は、松山出身の俳人

東京出身の漱石との出会いは、第一高等中学校時代(明治22年)のこと。

同い年で文学を愛する者同士、意気投合し、友情を深めていきます。

その六年後(明治28年)、松山に英語教師として赴任した漱石は、

本格的に子規に俳句を学ぶようになります。

夏目漱石といえば「坊ちゃん」「吾輩は猫である」などの小説で有名ですが

俳句の腕も大したもので、正岡子規

漱石俳句には斬新さとともに雄健さ、真面目さがある」と絶賛しています。

 



素敵な店内。

 

 

壁には漱石の名言のコラージュ。

どの作品に書かれている言葉か、わかりますか?

 

 

外はテラス席。ペットもOKだそう。

 

左手には竹林があります。

漱石が弓を引いていたというのは、この辺りなんでしょうか?

 

竹の合間から見える六月の青空は清々しい。

 

注文したパフェが来ました~☆^^

私たちが食べたのは、愛媛県産フルーツパフェ。

愛媛といえば、みかん! 爽やかな味が口いっぱいに広がります。

 

てっぺんの青紅葉が、涼しげですね。

フルーツがたっぷり入っているから、甘すぎず、

大きなパフェでも、ぺろりと頂けてしまいました。

窓の外の緑の揺らぎを眺めながら。

漱石も、こんな景色を見ていたのかしら?

 

 

私たちが店内に入るのとすれ違いに

おひとりさまの外国人女性が出て行きました。

その方の表情が、なんだかとっても満たされた様子で

知的で素敵な雰囲気を持った方だったので、とても印象に残っています。

残されたテーブルをつい覗き見ると、

坊ちゃん団子と抹茶のセットを注文されたよう。

きっと、夏目漱石が好きな人なんだろうなぁ・・・

日本が誇る文豪を、世界中の人が読んで愛している、

そして、その作品群が、この地を訪れるきっかけを作っている・・・

そのことが、なんだか、とても嬉しくなったのでした。

  

このカフェには実は、看板猫ちゃんがいまして。

その名も「夏目坊ちゃん」と「夏目マドちゃん」。

とうとう夏目マドちゃんには会えずじまいでしたが、

夏目坊ちゃんには、なんと、

このカフェの敷地内にある洋館・萬翠荘で出会えたのでした。

山で保護されたネコちゃんとは思えない

人懐っこくて愛らしい、かわいい夏目坊ちゃんは、

みんなのアイドル。

お客さんや萬翠荘のスタッフの女性陣からも、可愛がられていました。


リラ~ックス!びよよよ~ん。

かわいい夏目坊ちゃん&マドちゃんに会えるかどうかは運次第。

 

 

 

 

この近くには子規と漱石が52日間、同居していたという

愚陀佛庵(ぐだぶつあん)という下宿もあったそうです。

残念ながら、災害により現存しませんが、

漱石珈琲店の敷地内の萬翠荘には、

松山聖陵高校の生徒たちが作成した愚陀佛庵の模型もあります。

これは一見の価値あり☆

 

 

「わがやどの柿熟したり鳥来たり」 漱石

明治28年作、愚陀佛庵の風景を詠んだとされる句です。

漱石と同居する子規のもとには俳人が訪れ、句会や俳句談義が行われて

大賑わい。

そのあまりのにぎやかさに、漱石は悩まされていたとのエピソードも。

この句の「鳥」とは、愚陀佛庵に集まった俳人たちだとの解釈もあります^^

 

愚陀佛庵で過ごす子規(上)と漱石(下)。人形は創作人形作家・森川真紀子の作品。

 

 

 

子規と漱石

日本の文学の発展に大きく貢献した同い年の二人が、交友を深め

互いに高め合い、信頼し合う仲であったということ。

松山は、短い期間ではありますが、その二人が、寝食をともにし、

二十代の日々を過ごした地でもあるのです。

帝国大学を落第・中退し、病弱でも、おおらかだった子規と

生真面目で神経質な漱石は、お互いのないものに惹かれ合ったのかもしれません。

 

漱石珈琲店近くから見上げた空。

 

また、子規は常に死を身近に感じていた俳人でもありました。

結核を患い、自分は三十代で死ぬだろうと予想していた子規。

英国留学中の漱石に何度も手紙を書きます。

子規が最後に病床から漱石に送った手紙には

西洋を見たいと願いながら病気になって無念だったこと、

でも、漱石からの手紙を読んで、自分もロンドンへ行った気になって

愉快だったことなどが綴られていました。

漱石の輝かしい活躍と健康がまぶしかったのではないでしょうか。

また、自分の病が悔しい気持ちもあったでしょう。

子規は漱石の帰国を待たず息を引き取ります。

34歳の若さでした。

ロンドンからの帰国の途に子規の訃報を受けた漱石

こんな句を詠みました。

「筒袖(つつそで)や 秋の柩(ひつぎ)に したがはず」 漱石

筒袖(洋服)を着て異国にいる自分は、秋に逝ってしまった

大切な友の葬列にも参加できなかった・・・

悲しみと無念の想いが伝わってくる一句です。

そんな漱石も49歳で亡くなります。

二人とも、病に伏せようとも、死が迫り来ようとも

亡くなるまで決して筆を置かなかったことに共通しています。

最後の最後まで文学者であり、表現することを止めなかった二人。

早く死のうと長く生きようと、大切なことは、

その人生がどれだけ充実していたか。

二人は、現代に照らし合わせると、ずいぶんな早死にですが

近代文学に大きな軌跡を残しました。

性格は正反対ながら、才能に溢れる若き二人が

共に歩きながら談笑しただろう姿が見える気がしました。

近寄りがたいような、雲の上の俳人、文豪である子規と漱石ですが

松山を歩いていると、

ああ、そんな彼らも、

私たちと同じように笑い、泣き、怒り、青春を楽しんだ

「人間」だったんだなぁと思いました。

二人の友情に想いを馳せながら歩く松山は

とても楽しく美しく感じました。

 

夕闇に沈む松山の町。観覧車「くるりん」からの景色。

時代は変わり、街も変わったけれど、子規と漱石の作品は、

これからも色褪せることなく、読み継がれ、人々に様々な影響を与えていくのでしょう。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

<過去記事紹介>

 

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