長田弘さんのエッセイ「私の好きな孤独」は
題名に惹かれて読みました。
長田弘さんの紡ぐ文章は、
詩人だからこその言葉の選び方、感性に驚かされます。
簡潔な文章の中にこそ宿る、言葉のひとつひとつの持つ重さや美しさ。
一編が2~3ページという短いエッセイやストーリーが、
胸を震わせ、深く心に残ります。
孤独と孤立は別物。
たくさんの人と一緒にいても、「ひとりぼっちだ」と感じてしまうこともあれば
一人でいても、この世界のどこかにいる誰か、何かとの
繋がりを感じることもあります。
長田弘さんは、自分の「孤独」をまるで大切な友人のように
大切にしている人だと思いました。
そして、他者の「孤独」もまた、親しく美しく
鮮明に描き出しているのです。
「ひとり」でいることは、寂しさと隣合わせではない、
それを心から楽しむこと。
そして人生を彩ってくれる様々な愛するもの(音楽、本、カフェ)
とともに生きること。
長田弘さんのことばたちに、
「孤独」というもの、孤独との付き合い方をも考えさせられました。
私が最も好きだった一編。「曲がり角」は、
こんな文章から始まります。
曲がり角は神さまのものではない。
なぜならそこは、先が見えないところだからだ。
先が読めない。さりげなくみえる曲がり角でも曲がってみるまでその先はわからない。
角を曲がってはじめて、どんな道にでてきたか、どんな街にまぎれこんだのか、はっきりわかるのだ。
角を一つ曲がっただけで、考えもしなかった情景のなかへはいりこんでしまう。曲がった道がとんでもない方向へそれてゆく。そのまま連れてゆかれる。何でもない道がただなんとなくつづいているだけだったら、すぐまた次の角を曲がるのだ。
曲がり角のない街がないように、
曲がり角のない人生もありません。
どんなに先を急いでいたとしても、
まっすぐに突き進んできた人生でも
曲がり角があったら、いったん歩をゆるめなければ曲がれない。
その先が見えないから、怖かったり楽しみだったりするけれど
曲がってみなければ、その先の風景は見えないのです。
曲がり角を楽しめるのか。怖がるのか?
それによって人生も変わってくるのでしょう。
「曲がり角」といえば、私は少女時代の愛読書だった
「赤毛のアン」を思い出します。
こんなアンの言葉があります。
あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲がり角にきたのよ。曲がり角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。その道がどんなふうにのびているかわからないけれど、どんな光と影があるのか どんな景色がひろがっているのか どんな新しい美しさや曲がり角や、丘や谷が、そのさきにあるのか、それはわからないの
みなしごだったアンがグリーンゲーブルスに引き取られ
アヴォンリーの美しい自然の中で
様々な経験と出来事を経て成長していく物語。
愛する家族マシューを失い
人生の岐路に立ったアンが自分の将来を希望を持って
漕ぎだそうとするラストに、曲がり角は出てくるのです。
長田弘さんは、こんなことも書いています。
角を曲がる。先の見えないほうへ、曲がり角を曲がる。
すると、ありふれた周囲が
ゆっくり密かなおどろきにみちて変わりだす。
私の好きな孤独 (潮文庫)から抜粋
ありふれた日常を変えるヒントは
先の見えない道を、思い切って曲がってみることなのかもしれません。
怖がらず、すこし歩をゆるめて。
そこに、きっと密かなおどろきや見たこともない素晴らしい景色が
広がっていることを信じて。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
☆このページで使用した画像は全てフリー素材Pixabayのものです。
<長田弘さんの本>
今回の記事でご紹介した本です。
私が大好きな詩集。
クリムトの絵と長田弘の生と死をテーマにした詩が詰められた美しい一冊。
大切な人を亡くしたときに、そっと読みたくなる詩集です。
<赤毛のアン>
今回、引用したのは、こちらです。昔から「赤毛のアン」といえば村岡花子さんの翻訳が有名です。
最近、話題の松本侑子さんの新訳。次はこちらで読んでみたいと思っています。
<おすすめ本の過去記事>