Miyukeyの気まぐれブログ

愛媛県在住のアラフォー主婦です。本、洋画、訪れた場所などの感想を気まぐれに、かつ自由に綴りたいと思います☆笑顔の扉の”key"を見つけられる毎日になることを祈って♪現在は、仕事繁忙期のため月に2回の更新となっていますが、よろしくお願いいたします☆

栄光と孤独が生み出す絵画 「シアトル→パリ 田中保とその時代」展(埼玉県立近代美術館)を観て

田中 保(たなか・やすし)という画家を知っていますか?

私は、埼玉に引っ越して来てから、初めて知りました。

美しさの中に垣間見られる孤独と、寂し気な光に魅せられ

私は、その名前を忘れられませんでした。

私が初めて観た田中保の絵「サン・ベネゼ橋  」(1928年)

 

 

埼玉県立近代美術館で25年ぶりに

田中保の回顧展が開催されるというので訪れました。

「シアトル→パリ 田中保とその時代」展。

(現在、開催中  2022年 10月2日まで)

時代に翻弄された田中保の人生と作品の魅力を

十分に味わえる素晴らしい展覧会でした。

 

1、田中保の描く女性は・・・

 

「水浴」(1915-19年)

 

田中保は女性をモデルにたくさんの絵画を残しました。

美しさの中に、ふっと垣間見られる

一抹の悲しさや孤独感といったものが

なによりも観る者の心に訴えかけるのだと思います。

 

田中保の人生に最も影響を与えたと思われる女性は

二人。

母親と、妻:ルイーズ・ゲブハード・カンです。

 

埼玉県の浦和で生まれ育った田中保は

18歳でアメリカ・シアトルへ移民として渡米することになります。

その背景には父親の死による破産もあり、

また、その当時の移民増加の影響もありました。

浦和で、最後に母親と別れたきり、

田中は、生涯、母親と会うことはなかったのだそうです。

日本を離れて18年の月日が経ち

ようやく日本へ帰るチャンスが巡ってきた、ちょうどそのとき

母親の死去の知らせを受け取った田中は、

意気消沈し、帰国を断念しました。

画家として成功を収め、遠く離れた異国で暮らしていても

田中保にとって、母親は心の支えであり続けたのでしょう。

女性を描く田中保の筆の中には、

青年時代に故郷で別れた母親の影が見える気がします。

 

「黄色いショールと緑のブレスレットの裸婦」(1920-40年)

 

もう一人の大きな存在の女性は、

妻となったルイーズ・ゲブハード・カンです。

前衛的な絵画が認められにくい時代にあって、

田中保の絵は、何度となく世間から拒まれました。

その中で、田中保の作品を高く評価したのが

当時、美術評論家であったルイーズでした。

 

妻:ルイーズ・ゲブハード・カン

 

 

二人は意気投合して恋に落ちますが、

当時はアジア系移民と結婚するなんて最大のスキャンダル。

ルイーズは、法によってアメリカ国籍を奪われますが

それでも二人は、正式に結婚したのでした。

時代に流されることなく国籍を超えた恋を成就させ

前衛的な芸術を愛し、結婚後は旧姓で仕事を続けたルイーズ。

彼女は、田中保が描いたような凛とした眼差しを持った

女性だったのではないでしょうか。

 

「窓辺の婦人」(1925-30年)

 

 

田中保の作品は、ルイーズによって終生、愛蔵されていたといいます。

二人の固い絆と愛情がうかがえます。

 

2、栄光と孤独、そして夢に見た故国

 

18歳で移民として渡米した田中を待っていたのは

皿洗いやピーナッツ売りといった労働作業でした。

その後、独学で絵画を学び始め、頭角を現していきます。

34歳で、新しい活動の場を求めてフランス・パリへ。

そこでは藤田嗣治をはじめとしたエコール・ド・パリの画家たちが

集っていました。

サロン・ドートンヌなど数々の展覧会で高い評価を得た田中保。

1915年に発表した「マドロナの影」は

田中保の絵画に批判的であった評論家たちも

その実力と才能を認めざるをえず、そろって絶賛したといいます。

 

私も大好きな一作「マドロナの影」(1915年)。

淡い色彩の中に佇む少女の横顔が、どこか寂し気で胸を打ちます。

 

また、当時、パリに滞在中だった朝香宮ご夫妻は

田中保の才能を高く買い、協力を惜しまなかったといいます。

朝香宮といえば、白金台の東京都庭園美術館を邸宅として建てた

あの芸術を深く愛した宮家です。

 

朝香宮が購入した「裸婦」(1924年)

 

 

故国・日本での成功を強く望んだ田中保は、

満を持して帝展に応募。

しかし、それは落選に終わりました。

日本の美術教育を受けたことのない田中保の画法は、

日本の画壇では受け入れられなかったのです。

母親の死もあり、また、帝展の落選もあって、

日本での活躍を諦めた田中。

第二次世界大戦により、多くの日本人が帰国する中、

田中保は、パリに残り、ついに生涯一度も

日本へ帰国することはなく、パリで55歳の人生を終えました。

田中保が心に抱いていた故国・日本を思い焦がれる気持ち。

それは、作品の中の女性の陰りのある瞳の中にも

現れている気がしました。

 

「きものの女」(1919ー20年)

 

「屏風の前の裸婦」(1920-30年)

 

 

フランスで高い評価を得た田中保を、

エコール・ド・パリの仲間たちは良く思わなかったようです。

田中保は、孤立していき、帝展落選を境に、その溝は決定的なものに。

個展には、多くの日本人画家がいたというパリで

ただのひとりも足を運ばなかったといいます。

異国にあって、日本人の仲間からも疎外される・・・

どんなにか辛く孤独だっただろうと思います。

妬み、嫉妬もあったのでしょう、また、田中保自身、

人づきあいが苦手な部分もあったのかもしれません。

 

田中保がパリにいた頃、エコール・ド・パリの寵児:藤田嗣治もまた、

同じくパリで活躍していました。

「横たわる裸婦と猫」(1931年・藤田嗣治) (部分)

この展覧会では、田中保と同時期にパリで活躍した画家たちの作品も展示されています。

 

もし、彼らが共通する孤独を分かち合い

認め合うことができたなら、

異国の地で、きっと良きライバル、友になれたのではないかと思います。

とても残念です。

 

4、最後に  

 

「黄色のドレス」(1925-30年)

 

この展覧会は、こんな言葉で締めくくられていました。

 

田中の没後、その画業は長らく知られてきませんでしたが、

1970年代半ばから再評価が進み、当館では現在100点以上の

田中の作品資料を所持しています。

異邦人として生き、祖国でこそ認められたいと願った田中の夢は、

長い時を経て、叶えられたといえるのではないでしょうか。

 

 

田中保の絵画に初めて出会ったときに感じた

美しさの中に漂う陰りや孤独。

この展覧会に足を運び、田中保の作品群とともに

その波乱万丈な人生を知り、

すこし理解できた気がしました。

田中保が放った美しくも悲しい輝きは

現代の私たちの心に訴えかけるものがあるのです。

 

左から:「水辺の裸婦」(1920-25)「花びんのある裸婦」(1920-30)「ばら色の部屋着」(1886-1941)

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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